それは女だった。
女であるとわかる。
瞳が大きいだとか髪が長いだとか、服装が婦女子のものであるとか、そういった視覚情報は存在しない。
顔の美醜、化粧の有無、髪型髪色、膚色、視覚に訴える情報の全ては受信できない。
それは女なのか、疑問符が脳を満たす。
ただ、女だとわかる。
夕暮れが店内を照らしている。
閉店時間は過ぎている、店内に客は居ない、店内は夕暮れの傾いだ光だけが支配している。
夕暮れの橙色に染まった女は、橙色に馴染み過ぎている。
陽炎がそのまま形状を取ったように見えてきていた。
純喫茶の店主、狭間啓介は僅かに口を開いた。
「閉店時間は過ぎていますよ」
シノワズリの茶器を拭う。
サイフォンはいまだに沸騰を続けていた。
狭間は自分用の紅茶を淹れて店を終いにしようとしていた。
サイフォンの沸騰する音が不意に止む、湯の温度が急激に低下している、その場の温度が数度下がっている。
狭間は左手の小指を見た。
左手の小指には本来あるべき物が欠けている。
そこには爪が無かった。
無い爪が熱を帯び、狭間に警告を発している。
第六感が触感へ変換されている。
死者や異界、超常の存在を認知する時、形而上の第六感から形而下の五感へ強制的な変換が生じる。
第六感から五感への変換を生じる人々を世界は"第六感者"と呼ぶ。
より端的に表現するならば、霊能力者だとか魔術師だとか、彼らには派閥が存在するがこの場では重要ではない。
狭間は見て、聞く事しか出来ないはずだった。
然し、この女は触覚への変換までも引き起こしてみせた。
脅威的な存在であることは自明である。
「悪魔か」
狭間の属する派閥ではこういった超常の存在全般を悪魔と呼ぶ。
それら悪魔を利用し、使役し、契約を交わすことから狭間の派閥は伝統的に魔女と呼ばれる。
狭間は退屈そうに目付きの悪い目を更に不機嫌そうに歪めた。
「ご注文よろしく、て?」
女の声は高いようで低くもあり、甘いようで掠れた響きも含まれていた。
女は悪魔と呼ばれた事は意に介さずカウンター席に座った。
悪魔は招かれなければ入ってくることは無い。
狭間はその点に違和感を覚えた。
魔女の棲家たるこの場に許可無く侵入出来る悪魔など、存在しないはずだから。
彼女の目の前の花瓶には橙色の薔薇が生けられている。
今朝方切った物だったか、やけに目についた。
狭間は庭先で薔薇が咲いていた姿を思い返す。
それらに何か悪魔を呼ぶような由来があっただろうか。
彼女は橙色の薔薇に目を呉れることもなく、そのままただ店内を見渡した。
「どうやって入って来た」
「入って来れるから入って来たんだ、よ?」
話にならない。
狭間は嘆息してメニュー表を差し出した。
来たからには客ではある。
閉店時間は過ぎているが、時間のことを兎や角言う状況ではなかった。
メニュー表はこの瞬間悪魔との交渉カードでもあり、単純な喫茶店の案内人でもあった。
案内出来る内容は季節のブレンドコーヒーと、季節の紅茶、焼き菓子のみ。
この店は客人に選択肢をほとんど与えない。
稀に追加されるサンドイッチやパンのメニューも今の時期は剥がされている。
女はそれを捲ることもなく口を開いた。
「ウィッチズコーヒー、ご存知か知ら。それが良い、かな」
狭間はサイフォンを再加熱しにかかった手を止めた。
悪魔がこちらに干渉する手にしては直接的すぎるが、こちらは魔女だと把握済みだとでも言うのか。
ウィッチズコーヒー、コーヒーにストレーガを加えた単純なカクテル、当然ながらメニューには無い。
メニューを見ずに答えた辺り、こちらの交渉に乗る気はないとも取れる。
宣戦布告か。
超常の存在が現世に干渉する時、それは大抵危害になる。
本人がどう考えているのか、本人がどういう存在なのか、表面的に善良であれ、内面的に善良であれ、その結果は揺らがない。
少なくとも、狭間の考える世界のルールではそうだった。
悪魔の要求は跳ねのけるべきだ。
古典的だが三度の敗北で退散していただこう。
一度目の勝ち筋は極めて簡単、そもそも。
「うちは純喫茶ですよ、酒類は扱っておりません。メニューをご覧になって下さい」
純喫茶の定義は現代に於いては風化して久しいが、狭間にとって店名は重要な物だった。
女は少しだけ残念そうな顔をした。
今回は一勝で良いだろう、小手調べにすらならない単純な問いかけではあった。
女はメニューを開く。
指先でとんと突いて、その中から宝物でも探すようにゆったりと眺めた。
そして女は口を開く。
「貴方が飲もうとしていたもので良い、よ」
女はにこりとほほ笑んだ。
或いは、にやりとほくそ笑んだ。
もしくは、にたりと笑みを湛えた。
どの表情も確かに視覚の中に在ったはずなのに、何だったのかさえ曖昧だ。
超常の存在は曖昧性の高い場所に現れる、そして本人も曖昧だ。
丁度淹れようとしていた紅茶に目をやった。
二人分にするだけの量はある。
しかし、同じ物を飲む行為はあまり良いことではないだろう。
悪魔の大抵は死者だ。
死者と同じ物をその場で飲めば、死者と自分が同じ物だと認める事になり危険を齎す。
これだけ曖昧な場に居るのだ、境界を鈍らせる行いは避けるべきだ。
「何でも良いのなら季節のブレンドにしましょうか」
狭間は品の良い笑いを顔に貼り付けた。
自分用の紅茶を片付けた。
そもそもこれは喫茶店のメニューから外れている。
季節のブレンドはレディグレイ、オレンジピールを少し多く加えて。
女は良いとも悪いとも言わなかった。
サイフォンが湯気を立て、暫しの準備を経れば紅茶の匂いがその場に満ちる。
赤橙色の湯がカップに注がれた。
「どうぞ」
橙色は死者の色だ。
夕焼けは毎日その日の終わりを告げる。
その印象が死と結びついている。
橙色の要素を含む紅茶で狭間は生死の境界を暗に引いた。
「美味しそう、ありがとう、……」
女は平坦な声で礼を述べ、紅茶を口にした。
この時の勝敗は知れない。
女の細い指先がティーカップをなぞる。
もしも勝ち筋だったのならば、次の要求を退ければ最後だ。
この間、狭間はこの女がなぜここに来たのかを考えていた。
数日の間、店内店外で妙なことは無かったか。
庭の橙色の薔薇を切った。
開店中の札は既にしまっておいたはずだ。
町内会の友人がくれたウェルカムボードを飾った。
店内にミサゴの写真を一つ増やした。
花瓶に橙色の花を挿した。
アルバイトが皿を一つ欠けさせた。
挙げると思いの外多い、どれが直接の原因か思考する。
「せっかく店内に二人きりなのに話しづらいでしょう。お名前、知りたい、な」
思考は女の台詞で遮られた。
悪魔に名前を知られることもまた危険である。
エクソシストの類が悪魔の名前を探して悪魔を打ち倒す通り、悪魔にとって名前は重要な装置だ。
狭間啓介は大した意味の名ではない。
日本語だからこそ漢字の精確性が僅かな防御機構となってくれるがそれだけだ。
教えるべきではない。
「単に店長と呼んで下さい」
にべもなく狭間は切り捨てた。
これで三勝、退散の条件は満たされた。
大した相手ではなかった。
「つめたいの。店長さん」
鈴を転がすような声で女は笑った。
笑い声の印象は一つに収束している。
曖昧な部分が明瞭になっている。
小指の先の熱も収まりつつある、勝利は明確と言えるだろう。
そして、思い至った。
ウェルカムボード、あれの悪さか。
招かれなければ入れない悪魔が入るには拡大解釈が過ぎるが、これほど影響のある悪魔ならば些細な招き入れすら利用するだろう。
種が割れた手品師には退散してもらおう。
「お会計は500円です」
「私のこと、そんなに怖い、の?」
狭間は意図的に言葉を返さない。
500円がトレーに乗るのを待つ。
しかしてトレーの上には500円が乗せられた。
女は橙色の店内を緩慢に歩いて去って行く。
カップを片付けるその時、狭間は花瓶の変化に気付いた。
橙色の薔薇は数年前からそこにあったように枯れていた。

